館林城とは

館林城の歴史について紹介します

   
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館林城(別名尾曳城)は、市域の東部に位置する城沼を要害とし、その西側の台地上に築かれた平城です。本丸・南郭・八幡郭・二の丸・三の丸の館林城中心部は連郭式をなし、城沼に突き出た舌状台地上に存在します。
また、城沼から入り込んだ堀を挟み、その北側の台地には、外郭や総郭を配し、侍屋敷が集中していました。総郭の入り口にあたる大手門より西には町人地や寺社がまとまる城下町があり、城下町を含め、城内の各郭は土塁と堀で囲われていました。
さらに、城下町の北は渡良瀬川など河川の氾濫原となった低湿地が広がり、南は台地を開析して城沼に流入する鶴生田川が流れています。
館林城はこのような自然条件を駆使して築かれた城といえます。

  

館林城の歴史

史料における記録
文明3年(1471) 関東地方を戦に巻き込んだ、古河公方足利成氏と関東管領上杉氏との抗争(享徳の乱)の中で、古河公方の本拠地・古河城攻略に向け、足利や館林城を含む佐貫庄へと兵が進められた。 この時の様子が「足利成氏書状」や「上杉顕定感状」などに館林(立林)城が上杉軍に攻められたことが記載されている。
その時の合戦の様子は「松陰私語第二」に詳細に記され、その中で館林城は、「彼城の地利、湖水三方押廻り責口一方なり」とあり、城の三方を湖水(城沼)に囲まれ、責め口が一方しかないことが分かる。
この時の館林城主は足利成氏に加担していた舞木氏の被官の赤井氏であり、“立林要害”に籠城したが、5月23日に上杉軍に攻め落とされてた。
永禄5年(1562) この頃、館林城は赤井氏の本拠となっていたが、上野国に侵攻した上杉謙信によって攻略される。赤井氏は北条方に組していたが、上杉謙信の攻略により降伏し、館林城は 足利城主長尾景長に預けられ、景長は足利より館林城に移った。
天正13年(1585) 天正12年、由良氏(長尾氏と同盟関係。長尾氏当主の顕長は由良氏の出身)と長尾氏が下知に応じないのを理由に、北条氏政・氏直が金山城(由良氏本拠)と館林城を攻め、翌13年に金山城・館林城は北条氏に屈する。 館林城は北条氏政の弟氏規(伊豆韮山城主)の持城になり、館林領内は北条氏の直轄となる。
天正18年(1590) 関東地方をほぼ掌握した北条氏も豊臣秀吉軍の進撃に遭い、北条氏方の城が次々と秀吉軍に降伏する中、天正18年小田原城総攻撃により北条氏は滅亡した。同年8月、北条氏の旧領である関東に入国した徳川家康は 各要所に家臣を配置し、館林には徳川四天王のひとり榊原康政が館林10万石の城主として入封した。
館林に入封した康政は領内の総検地をすると共に、館林城の城郭拡張工事と城下町の移転整備に着手した。この時の城の地割が近世館林城の地割として確定したといえる。
榊原氏の治世は寛永20年(1643)に3代忠次が陸奥国白河に転封されるまで康勝、忠次と3代54年間にわたった。
正保元年(1644) 榊原氏の白河への移封後1年間の城番期間を経て、松平乗寿(大給松平氏)が遠江国浜松より6万石で館林に入封する。
寛文元年(1661) 松平氏は下総国佐倉に転封となり、代わって3代将軍家光の第4子徳川綱吉が25万石で館林を与えられる。綱吉の城主期間は延宝8年(1680)に5代将軍になるまでの20年間に及ぶ。
綱吉が将軍に就いた後は、その子徳松が後継した。
天和3年(1683) 徳松の夭折により館林城が廃城となり、城は破却された。以後、24年間館林は幕府直轄領として代官支配となった。
宝永4年(1707) 後の6代将軍家宣の弟・松平清武(越智松平氏)が館林2万4千石を拝領し、翌5年には幕府より5千両を借用して再び館林城の普請に着手し、廃城前の館林城を参考に、各郭の造作が随時行われる。(『甲府支族松平家記録』(京都大学法学部蔵))
その後、清武は加増されて5万4千石となった。その松平氏も享保13年(1728)の武元相続と同時に陸奥国棚倉へ転封となり、その後は太田氏が城主となる。(資晴、資俊の2代)
延享3年(1746) 松平武元(越智松平氏)が館林城主として棚倉より復帰。幕府より絵図を借用し、館林城の造営を再開する。武元、武寛、斉厚と幕府の要職に就きながら、本丸石垣、千貫門(渡櫓門)、本丸二重櫓などを造営する。
天保7年(1836)に石見国浜田に所替えになるが、越智松平氏による館林城築城は5代約110年間にわたり継続して行われたことになる。
その後は井上氏(正春)が城主となり、この時の館林城地引き継ぎの届けにより当時の館林城の様子を知ることができる。
弘化2年(1845) 出羽国山形より秋元氏が6万石で入封し、志朝・礼朝と2代続く。戊辰戦争で館林藩は新政府軍として会津・仙台方面へ出兵する。
明治4年(1871) 廃藩置県により館林城が廃城となる。
明治7年(1874) 火災により大半が焼失。その後、焼け残った城内の建物も取り壊され、その部材の一部は町内の小学校や寺院などの建設に再使用されたという。

            (参考文献:『館林城調査報告書 第1集 城郭図とその変遷』、『館林市史 特別編第2巻 絵図と地図にみる館林』)